昭和41年8月31日 朝の御理解 真心に信心がすすむと、いわれておりますから、お互い真心を、いよいよ発揮さしてもらうなり、真心にならせて頂いて、信心をすすめて、いかなければなりません、私真心というのは、行き届くということだと思うですね。
真心というのは、行き届くということ、然も、その行き届いた、その思いの限りをつくして、こう行き届くということ、そして、そのあとに、私は、あの これで、よいのであろうかと、こう 思うてみることだと、思うんです。
いうならば、真心とは、丁度お茶の手前をするようなものだ。どの、ひとこまをぬかしても、もう先には、すすまれない、もう ま 行き届くといや、このお茶の手前なんかをみておりますと、もう この位行き届いたことは、ないと思いますよね。
もう 実にその、行き届いたことです。ですから、その その形ができたと、いうことだけては、なくて、そのあとにです、これで、よいのであろうかと、こう思う、これに、心をかけて、形だけじゃない、いけませんからね、それだけ、心をもって、例えば、なら、先日 家内にもうしましたことですけれども、あの、床をひとつ、のべると、いうだけにでも、私はあの 行き届くかなきゃ、いけないと私はおもう。
そして、のべたあとに、ええと、これで、よいかなと、こういっぺん、みてみる。もう 何事にも信心になれよと、おっしゃるのは、そんなことだと、こう思う。
ですから、ひとっも、むつかしいことじゃない。信心にならせて頂こうと思うとったら、ただ( )ぽんと、こう敷布団をしいといて、敷布をしいた、まあ 蒲団をおいて、枕をおいて、もう それだけの、ことなんですけれどもです。
ですから、それが、もう横、縦にひいてあったり、枕は、こっちやっとると、いったようなところが、ありもしますまいけれども、そんなら、きちっと、こうした、だけでは、いけん、そのあとに、ええと、これでよいだろうかと、こう思うてみることなんです。私は真心とは、そんなもんだと、思うですね。もう一事が万事に、そして、ちったよごどる、けれども、もう これで、よかよかといったような、気持ちがあったら、もう、それは信心じゃないと、いうこと。もう 真心じゃないと、いうこと。真心で信心がすすむ。ただ いわゆる、その真心とは、行き届くということ、同時に、そのあとに、これで、よいであろうかと、どんなに、そりゃ、立派にでけておりましても、こう思うてみること、もう一事か万事に、ひとつ そういうような、心くばり、というものを、もって、私は何事でも、そうさして頂くこと、真心でさして頂くということは、そんなことだと思う。
お初穂ひとつ、おつつみに、なるでも、そうですね。ただ中味が入ってさえ、すりゃよか、はあ もう真心をこめておる、というだけでは、いかん、やっぱり、形の上にも、もし しわが、よっとるなら、しわを、きちっとのべて、のばして、そして、これでよいであろうかと、もう この頃あたしゃ、ちょい ちょい感じることですが、皆さんがお初穂を、入れた気持ちで、入れてない人が、この頃、ちょい、ちょいあるです。暑いから、ちった ぼんやり、しとやれるのじゃないか、忘れとるのじゃなかろうか、とうと、気付かんなり、けれども、まあ、本人は、お借えしたつもりですから、まあ 私はその、つもりで、あたしも、そのつもりでお届けさして、もらうんですけども、ほんとです、この頃よくあるです、もう五人分なら、五人分あたしゃ()庭の散り葉でもと、おっしゃる、ですから、まあお初穂袋を、庭の散り葉代わりに、しとられという程しに、この人が困っとられるということでも、なさそうなんです。
やっぱ行き届かんとです。真心が欠けとる訳ですよね、そりゃ、沢山お金持っとる人にちがいないです。
たいがい、もう( )なら すぐ気がつく、「あっ、こりゃ、忘れたと」すぐ気がつくと ばってん、気がつかん、とこをみると、まぁだ 沢山入とるから、気がつかんとです、そのお初穂のことだけじゃないですけれどもです、中には、ほんとに、もう しわくちゃんとば入れちゃつとがあるです。
なら、きちっと、もう それこそ、手の切れるような札ば入れときゃ、真心かというと、そうでもない。そのあとに、これで、よいであろうかと、思う、そして、自分の心に、例えば、不行き届きのものがあったり、不浄なものが、かかっておったら、お詫びをさして頂く心だと、それを修正さして、もらうことだと、だから、真心というのは、もう一切何事でも、真心をもってすると、真心をもって、行なうと、それが信心、それが、なら、むつかしいことでも、なからなければ、なら 時間がかかることではないと。なら、ちょいと、いっぺん思うて、みらにゃんけん時間がかかるごたる、ばってん、そうするうちに、思うのですから。
ここをすることはです、そのことは、神様に心を向けておる、しるし、なんですから、心、無しにことをしては、ならないと言うこと。
思いをこの、さして、もらわなければ、そういう、行き方に、信心がすすむと、おっしゃるのですからね。
昨日ある教会の先生というのが、親子連れで参って、みえられました。親教会との関係があんまり良くないのです。で教会の看板は、あげられたけれども、全然お参りも少ない。生活が成り立たない。親教会には、ちゃんと、こうこうせにゃ、ああせにゃならんと、いわれるから、そうしよられるうちに、もう自分の財産までなくなってしもうた。
途方にくれられて、そして、まあ、ここに見えられた訳なんです。そして、ここで、もう、教師を断念しますと言われる。ですから、信心修行をここで、さして下さい。まあ いかにも、そのようです けども、私は、申しました「いや、あなたが、これからでも、やっぱり、あの教師として、お取り次ぎ者としてです、ほんとに、自分に力がないから、こりゃ、もう ひとつ力を頂かなければ、人は助かんと、ためには、先ず自分自身が、たすからんならん、ために、あなたが、ここで修行なさると、いうのならね、私も考えようがある、けれども、教師を止めると、いうようなことで、ただ ああた方が、ここで、親子で見えるというだけだったら、ちょいと、まあ、言うやしませんでしたけれど、もう住まうところ、食べることには、ここに居ればこと欠かないんですから、その、ことだけのために、もし見えられるようなことであっては、いけないと、いう意味のことをもうしました」
そりゃあたしゃ、お断りだと、こう申しました。例えばなら、九州の祖といわれる、桂先生ですら、御本部から、九州の小倉へと、四神様から、おっしゃられて、そして、道を開かれたけれども、どうしても道が開けん、とうとう、いっぺん御本部に帰られたと、いうことがあるように、いっぺん出たけれども、開けなかったからと、いうて、もう それで断念すると、いうようなことじゃいけません。
こりゃ、自分の信心不足だと、力不足だと、もう、ひと力を 頂いてから、又出直そうという、その気持ちで、ああたが修行なさるというのならば、又考えがある。
別ですけれども、教師を止める、ただ親子で、ここで、修行したい、そりゃ、出来ません。
それも折角なさるのですから、親教会なら、親教会の先生が、どうぞ、うちの弟子に、こんなのがおりますから、いっちょここで修行さして下さいと、例えば、古賀先生の例を言うて、そう申しました、もし親教会とのなにがいけんなら、せめて、教務所までぐらい、行ってから、教師の資格をもち、教会もったけれども、どうしても道が開けませんと、今教会では、こうこういう訳ですから、椛目でしばらく修行さして頂きたいと思うが、所長の考えはどうでしょうかという位にです、相談でも なさってからおいでられなれれば、あたしゃ、いかんと私は申しました。
それで、なら 親教会の、まあ( )なり、又はその教務所が、中に入って、頂くといえば、修行さしていただいても、いいだろうか、という。
「そんなら、いいですよ」と「然も、教師を断念せずに、ま、それは、三年かかり、五年かかるか分かりませんけれども、お許しを頂いて、布教にでも、出らして頂くという、願いを、もって、頂かなきゃ、ここで、修行して頂く訳にゃいかん」と私が申しました。
そりゃ、成程、以前は、その教師に、心ざさなくても、ただ ここで、修行をして、おるといったような人達が、ありましたから、そういうようなことを、聞いて、見えられたんだろうと。こう思いますけれども、ま、これからは、そんな訳には、いかん、。
ただ自分が、今現在、仕事がなかけんで、いっときばかり、椛目にいっとこち、いうごたる、ことじゃ、もういかん、これからは( )信心修行になるかもしれんばってん、それじゃお役に立たん、折角神様のおさがりを頂いて、そして、お広前で、ほんとに、打ち込んで、信心修行するなら、やはり、取り次ぎ者としての、御用にでも、たたして頂きたい。
直接 先生の信心を、ここで体得したいと言う、願いのもとに、修行じゃなからにゃいかん。と言うて、私、今まで、そういう例がないじゃ、ないですけれども、これからは、いけませんと、言うて、申しますと、同時にです、神様にそのことを、お取り次ぎさして頂いたら、一生懸命そのカンナをかけておるところわ頂くんです。で 私が申しました、もう いよいよ( )もでけんと、人間の一番困った、難儀なと、いうような時にです、私は自分の心に、もう身にも、心にも、いわば仕上げ、カンナをかけるような時だと。
成程 身にカンナをかけられるような、思いという時には、一番つらい時でしょうけれども、その つらい時が、いちっばなん自分というものを脱皮することが、できる時であり、いわば仕上げカンナを、かけさせて頂けるチャンスなんだと・
お徳をうけたというような人達は、みんな、そうなんだと、もう いよいよ根限りな難儀に直面された時に、その人のいわば、霊徳というものが、発揮されとる、お互いにあるんだ、それを、いわば、あらけずりでは、まだ光が出らない、けれども、それに、そのことによって、仕上げカンナを、かけられるところに、霊光を放つような、おかげが、頂けれるんだと、というようなことを、ま、お話したんですけれども、お互いとても同じことです。
日々 真心をもって信心が、すすんで行くということと、同時にです、私共が、腹が立つようなことがある。
難儀な思いをすることがある。そういう時こそ、ほんとの信心にならせて、頂く時の、いわばチャンスなんです、( )な んだ、今こそ、いうならば、心にカンナをかけさして頂く時なんだ。もう 腹の立って、こたえんとを、じっと、こらえるだけじゃいかん。その腹の立つなら、腹の立つということをです。自分の心に押し当ててみて から、成程これじゃ、というものが、いわば、あらたまって、行くということがです。私は心にカンナをかけて、いくことだと、それは、つらいことである。
それは苦しいことである。けれども、きれいに、なって、いくと、いうことなら、楽しみである。
霊徳というものは、私はそうして、おかげを頂いていくものである。
真心によって、信心が、いわば、すすむなら、真心によって、神様の御信用が段々ついて、いくところの、もし御神徳が頂けれるならば、いよいよ自分が難儀を感ずる時にです。その難儀を、難儀とせずにです。その難儀を自分心に、カンナをかけさして、頂く時だと、心がけさして、頂いて、おかげ頂く時に、私は、霊徳が身にうけられるとこう思う。神徳、霊徳をうけていかなければ、人間のほんとの幸せはないと言われております。
神様の御信用がつくと、言うことはです、やはり真心の人です。心の美しい人です。それには、私共が行き届かなければ、いけません、もう実意丁寧、いわゆる、神信心なんです。
床をひとつ、とらして頂くでも、真心のとり方がある、形が出来たと、いうだけではなく、その形のあとにです、ええと、これでよいのであろうかと、それが夏であるならばです。( )り、はあ、やすまれる時に、この辺に、丁度手の届くところに、おしぼりも、置いとこう、うちわも置いとこう、と こう、うちわでも、おいてみて、自分が、その使う時の、気持ちになって、する位のことが、なんで、むつかしいか。
その位の思いをかけることが、たんびん、たんびんに、ああ、うちわは、どこにあるか、おしぼりは、どこにあるかと、言わんならんようなことでは、それじゃ、例え床を、ひいてあっても、それは、もう ただ床が ひいてあるという、だけなんだと、これは、もう 一事が万事に、そうなのですから、真心とは、その、むつかしいことじゃない。
行き届かせて、頂くということ、ことによっ、神様の御信用がましていく。いよいよ自分の難儀を、感ずる時にです、自分が、いよいよ本気で、磨かして、頂くことに、あらたまらして、頂くことに、今こそ自分の心に、カンナをかけておる時だ。
仕上げカンナをかけて、おる時だと思うて、です。それほどに、カンナをかけられるような、思いがするような、場合でも、今こそカンナをかけられておる時だというような、頂き方こそです。
いよいよ、あらけずりの、私たちがです、仕上げカンナを、かけさして、頂くところから、光が出てくる。霊光を放つことができるようになる。
そういう私共が、機会を与えられて、おりましても、それを なくして、しまう。
ただ楽なほうへ、楽なほうへ、と走ろうとする、それでは、身にカンナを、心にカンナをかけることは出来ません。もう ほんとに、今こそ、あなた方親子は、身にカンナをかけるような、苦しさですけれども、それを、そのまま、心にカンナをかける時だと、親子のものが、あらたまりに、あらたまって、いかれたら、そこから、必ず道が開けますよと、言うて、私昨日もうしましたことですけれども、お互いの上にでも、そのことが、言えると思うですね、どうぞ。